宮内鎮雄

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宮内鎮雄, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=233628 / CC BY SA 3.0 #フリーアナウンサー #TBSテレビのアナウンサー #1945年生 #存命人物 #日本のナレーター #国際基督教大学出身の人物 #日本のラジオパーソナリティ 宮内 鎮雄(みやうち しずお、1945年1月24日 - )は、日本のアナウンサー、ナレーター。 東京都出身。 武蔵中学校・高等学校卒業、国際基督教大学人文科学科卒業。 血液型O型。 重厚感のある独特の語り口が特徴。 Tシャツに長髪、髭とアナウンサーとしては型破りであり奇抜な格好でも知られる。 趣味は映画鑑賞。 コアなMacユーザーである。 1967年4月、TBSへアナウンサー12期生として入社(同期には青木靖雄、石森勝之、小口勝彦、河野通太郎、久米宏、林美雄、米沢光規)。 川戸恵子はアナウンサーの1年先輩にあたる。 11月15日、アナウンサー研修室設置に伴いアナウンサー研修室付兼ラジオ局第一制作部勤務に。 1969年秋、パックインミュージック第二部を担当する。 1973年、当時TBSと提携していたイギリスのBBCに派遣されて3年間日本語放送のアナウンスを担当。 2001年、TBS分社後のTBSラジオの第一声を担当。 2005年1月、TBSを定年退職。 TBSアナウンサーとして最後の仕事は、TBSラジオの『月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』での面白ナレーション。 2月、フリーアナウンサーとして活動、TBSテレビ『ダイヤモンドシアター』の冒頭新作映画紹介コーナーのナレーションを担当。 一部ラジオ番組では社員当時のタイトルコールが引き続き使用されている。 また、TBSアナウンススクールで後進の指導に当っている。 中学・高校とポップスが好きで、FENや糸居五郎といったDJに憧れていたが、DJの採用がなくディレクター志望だった。 TBS入社時から一貫して音楽番組を担当したが、演歌が大嫌いで、歌謡曲番組を担当させられたのが一番嫌だったというほど。 「会社員になるというのは、自分の時間を売ることですが、好き嫌いの立場ははっきりさせたい、と思ってきました。僕のスタイルを会社が認めてくれたのは、ありがたかった」と、特に洋楽にこだわり、さらに洋楽でも「みんながやる。どの番組でもやりたがる」という理由でビートルズとサイモン&ガーファンクルを大々的に扱うことはなかった。 TBS在籍時は外信部に足しげく通い、欧米の通信社が配信する音楽・映画などのエンターテイメント情報を独自に収集し、番組作りに役立てていた。 『パック・イン・ミュージック』担当時にはAP通信が配信したビルボードのチャート情報をいち早く紹介した。 また欧米のミュージシャンや俳優が来日した際は記者会見に必ず出席し、時にはその模様を録音して番組で紹介していた。 『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』などのナレーションが中心だったため、テレビ出演は少なかったが(在局末期に放送の系列局アナウンサー出演特番に登場した程度)、TBS局アナの長老格として一目置かれている存在だった。 口の悪い人は、「赤坂原人」と名付けたほどで、『TBSアナウンサー名鑑』には「万年ヒッピー」と記す等、存在感があった。 月曜JUNK以前のUP'S時代から『伊集院光 深夜の馬鹿力』で、アナの宇野淑子(2002年定年退職)や鈴木順(2013年定年退職)と共に面白ナレーションなどを務めた。 伊集院光はアナの宮内の持つ、重量感ある安定した読み方を大変気にいっていた。 番組内で放送されたTBSアナウンサーとして最後の言葉はラジオネーム、「おばあちゃんの本名OK海老沢ミツ」の投稿「デブは喪服もサスペンダー。」だった。 2010年7月9日、枡田絵理奈の公式ブログで食事会に集まったメンバーとして元アナウンス部デスク桜井、加藤シルビアと共に文章で紹介されている。 ^ a b c “アナウンサー通信”. TBS. 2006年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。 2014年11月1日閲覧。 ^ a b c d e “TBS宮内アナ定年退職しても“万年ヒッピー””. 夕刊フジ. (2005年1月22日). オリジナルの2014年11月1日時点におけるアーカイブ。 . https://web.archive.org/web/20141101222025/http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_01/g2005012203.html 2014年11月1日閲覧。 ^ a b “わらしべトーク”. 古舘プロジェクト. 2014年11月1日閲覧。 ^ 「III 放送関係 7.アナウンサー...

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